『万引き家族』という映画を観た。カンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞した是枝監督の作品だ。今日は、この作品を軸に「家族の絆」について考えてみたいと思う。以下ネタバレ注意
あらすじ
高層マンションの谷間にポツンと取り残された今にも壊れそうな平屋に、治と信代の夫婦、息子の祥太、信代の妹の亜紀の4人が転がり込んで暮らしている。彼らの目当ては、この家の持ち主である初枝の年金だ。足りない生活費は、万引きで稼いでいた。社会という海の底を這うような家族だが、なぜかいつも笑いが絶えず、互いに口は悪いが仲よく5人で暮らしていた。ある冬の帰り道、親からネグレクトされ団地の廊下で震えていた5歳の女の子、ゆりと出会う…
小学校で働いていると、いろんな家族に出会う。毎年ハワイで年越しをする家族。キャンプが好きな家族。刑務所にいるお父さんと連絡を取っている家族。お母さんの彼氏の車で生活している家族。
どれも実在した家族である。では、どの家族が一番幸せなのだろうか。
「後者の2つは無いな。毎年ハワイは嫌味っぽいな。キャンプの家族はなんとなく幸せそう。」
実はこう考えても答えはでない。
なぜなら幸せとは絶対的価値観であるからだ。肩書きや物などといった相対的なもので他人が測るべきではない。お金持ちでも不幸な人もいるし、貧しくても幸せな人もいる。
大切なのは何があっても揺るがない絶対的な心の繋がりがあるかどうかだ。それを持ち合わせている家族こそが幸せな家族と言える。
ではこの極めてパーソナルな感覚はいかにして作られるのだろうか。
治と祥太にみる心の繋がり
父親の治が息子の祥太と万引きをするシーンがある。父が目隠しになり、息子に盗むタイミングを伝える。息子はお菓子をカバンに落としいれ、店を去る。その帰りに、「上手くいったろ」と誉め、商店街でコロッケを買って2人で食べながら帰るのだ。
「お菓子を万引きさせ、すぐあとでコロッケを買ってやる」
この一見矛盾する行動から何を見るか。お金が無いから盗んでいる訳でもないようだ。では何のために盗むのか。それはコミュニケーションのためである。2人にとって、万引きは親子同士のただのコミュニケーションでしかない。
「やれるか」「やるよ」「いいだろ」「いいね」「よくやった」「ありがとう」
万引きが犯罪であることを抜きに考えれば、これほどまでに互いの承認欲求が満たされることも無いのかもしれない。汚くて綺麗な家族の絆だ。
ゆりと万引き家族にみる絆
ゆりはネグレクトされていた。母親との間に絆は無い。しかし祥太がゆりに「お母さん優しい?」と聞くと、「優しいよ。お洋服買ってくれるもん。」と返答をする。
この時のゆりは、優しさ=何か物を与えてくれることと考えている。絆の無い偽物の優しさ。ゆりは他者や他人の物と比較して、自分が何かより優位にいることを確かめたいのかもしれない。
作品の中には、ゆりの相対的価値観を絶対的価値観に高めるようなシーンがこれでもかと言うほど出てくる。
- 5歳のゆりが火傷しないように、鍋にあるお麩をフーフーしてから食べさせる
- 虐待されていたゆりに対し、「好きだったらこうするんだよ」と言って抱きしめてやる
- 「花火の音がするよ」と言って、屋根で見えないけどみんなで空を見上げる
- 縁側で茹でトウモロコシを食べながら、ゆりや祥太を膝に乗せてやる
- ゆりの抜けた乳歯を屋根に投げる
- カレーのカップラーメンにコロッケを浸して、「うまいだろ」という
- ラムネを飲んでゲップして笑う
- 雪が降っていることに驚き、雪だるまを一緒に作る
- 祥太と治が一つの布団で寝ながら話す
何気ないことかもしれないが、1つ1つが凄く愛のあるコミュニケーションだと思う。全て是枝監督が大切にしている感覚。現代人が忘れちゃいけない感覚。こうした温もりのある経験を通して、人は心と心でつながっていく。
劇中の家族は、全員がこうした心の距離の詰め方をいとも簡単にやってしまう。人としての優しさを始めからもっているかのように。家族より家族らしく。
学校で問題を起こす子の多くが、愛着障害を抱えている。教師は何百組も家族を見ているので、本人や親はそう思わないかもしれないが、親子関係が希薄であることはすぐに気付く。そういう家庭に必要なのは、説教や罰ではなく、我が子を抱きしめることだったりする。
映画では、こうした経験をしたゆりが、最後に実の母親のもとに返される。
母親が言った。
「ゆり、こっちおいで。好きなもの買ってあげるから。」
ゆりは応えた。
「いらない」
その時、ゆりが欲しかったのは
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